『映画としては正直あまり面白くなかったです。』映画「スリー・ビルボード」が映し出す現代のアメリカ【映画レビュー(ネタバレあり)】

まずは予告編をご覧ください。

 

Wikipediaによれば、

英国アカデミー賞作品賞
英国アカデミー賞英国作品賞
ゴールデングローブ賞 映画部門 作品賞 (ドラマ部門)
全米映画俳優組合賞キャスト賞

を受賞しているそうで、

僕が映画を観る際に参考にしている『キネマ旬報ベスト・テン』でも、2018年の『外国映画ベスト・テン』と『読者選出外国映画ベスト・テン』の両方で1位を獲得しておりまして、

友達の推薦もあり観てみたのですが、

『まぁ…面白いと言えば面白い…』

というのが正直な感想です。

しかし本当にいろいろな人が絶賛しているということもあり、僕がズレているだけなのかもしれません。

何からズレているのか。それは恐らく、アメリカを代表する、文明化された現代社会の抱える問題や危機感からです。

今回は僕があまり面白くないと感じてしまった理由と、その後に全くアメリカについて詳しくない僕がこの映画から感じた現代のアメリカについて書きたいと思います。

あらすじ

舞台はミズーリ州の田舎町。主人公の女性、ミルドレッド・ヘイズはある日、レイプされた挙句に焼き殺されるという凄惨な事件で娘を亡くしてしまいます。しかし事件から7ヶ月たっても事件は何も進展を見せません。主人公は苛立ち、警察を批判する3枚の広告板(スリー・ビルボード)を設置します。そこに書かれたメッセージは「娘はレイプされて焼き殺された」「未だに犯人が捕まらない」「どうして、ウィロビー署長?」というもの。この看板がきっかけで町には様々な騒動が巻き起こっていきます。

終始フワフワした展開。

事件から始まり、それが物語の推進力になっていますので、出だしの方は面白く観ることができました。

ただ、少し困っている人がわかりづらいのかな、という印象です。

困っている人がいる→葛藤がある 状況じゃないと、観ている人は先が気にならず、面白いと思いません。
(葛藤については↓でも解説しておりますのでお暇でしたらご覧ください。)

キャラクターに葛藤を生み出す方法 – 面白い物語を書く方法【物語理論】

主人公はアナーキーな人間なので、何か主人公の行動の妨げや、物語のベクトルの向かう先を妨げる人、物事が現れても、ものともせずに乗り越えていきます。

確かに看板の設置によって主人公は批判を受けるんですが、それに困っている様子が見受けられない。むしろ周囲の人間の方が困っている様子です。

だから、主人公の葛藤が少し見えづらいんです。

もちろん主人公以外のキャラクターの葛藤が見えれば、物語として成立しますが、基本的に主人公のアナーキーな行動によって困る人はモブキャラばかりなんです。なので、現れては消え、現れては消えていく。

主人公の周囲の人間の描き方が足りないのかもしれません。

よく、物語を考えるときに簡単で重要なことは、『主人公を含むキャラクターが物語の前と後でどう変わったのかを考えると良い』と言います。

確かに警官の一人は変化しました。でも主人公は…何も変わっていない気がします。

だからドラマがない。感情の揺れ動きがないのだと思います。僕の理解力が足りないのかもしれませんが。

主人公をある環境に突き落とし、その上での動きを理解していくのが物語を作ることだとするのであれば、主人公と、その環境を理解するという作業が、少し足りなかったのではないかな…と、生意気にも思ってしまいました。すいません。

ラストシーンがああであることを評価していいのか。

ここからは完全にネタバレしますが、最後のシーン。

主人公は警察が立証できなかった犯人と思われる男を追って、元警官とともに旅に出ます。銃を持って。

普通の映画であれば物語はここから始まります。この犯人を追って、手がかりを得ては見失う所に物理的葛藤が生まれ、また、犯人を殺すのかということに迷い、そもそも、その男は本当に犯人なのだろうかといったことにも迷いは生じ、精神的葛藤が生まれ、主人公は一体どうするんだろうと、観ている人はハラハラするわけです。

この一般的な展開としないところにこの物語のミソがあるんだと思うんです。

つまり、最後のシーン。主人公の決断こそを観せたかったのだと。

ではその決断とはなんなのか。

法律や警察など、現代の社会的システムに失望し、それに頼らず、自らの手で、犯人かと思われる男に裁きを、鉄槌を、鉛玉をブチ込むという決断です。

こういう物語があることを全くもって否定はしません。物語に善も悪もないと思いますし。

ただ、こういう物語に共感し、評価をする人がなかなか多いということに、少し違和感を感じるわけです。

みんな現行の社会的システムに不満なのかな…。

この作品はアメリカ映画ですから、アメリカを映し出している作品だと思います。

この映画に共感することが多いということは、問題が転がっていようと何もしない政府や、解決することができない口先だけの政府や社会的システムに不満で主人公のようにアナーキーな振る舞いをすることも時には必要だと、みんなが考えているのかもしれません。

映画を観た時、僕は上記のようなことを考え、同時にもう一つ、

『この主人公、トランプに投票しそうだもんな…。』

とも思いました。

アメリカの現状について全くもって知りませんし、トランプに賛成でも反対でもありませんが、どこか『この映画は現在のアメリカを映し出しているのかな。』と、思ったわけです。

ウィロビー署長の自殺について。

そしてもう一つ、観終わった後僕は、こんなことも考えました。

『話の筋として、途中で展開されるウィロビー署長の自殺は必要なのかな…。』

しかし、この映画が映し出すのが、現代のアメリカのシステムだけではなく、現代社会の価値観や時代の転換期であることを示すものであるのであれば、ウィロビー署長の自殺も物語として必要だったのかなと思います。(言わずもがな自殺を肯定しているわけではありません。)

ウィロビー署長は末期の癌であり、言ってみれば尊厳死とも言えるものを選んだわけです。

この物語がただ現代に横たわる問題や考えなくてはいけない物事を投げかけて終わることをテーマにしているのであれば、ウィロビー署長の自殺は社会的なシステムの問題だけではなく、そこに至る前の、人生や価値観についての議論をすることの意義を投げかけるために必要だったのではないかとも思います。

『主人公のアナーキーな行動だけでなく、ウィロビー署長の、現在の価値観にはないなんとも言えない行動によって、新たな問題を投げかけている。』

この物語は上記のような作品なのかもしれません。

だからこの物語は、本来は物語の始まりたるべきところで終わり、その物語の結末は、観た人の人生に委ねたのかもしれません。

 

 

いかがでしたでしょうか。最後だいぶそれっぽい感想になったのではないでしょうか。

全くアメリカのみならず日本の社会についてもよくわかっていない人間が偉そうによく書いたものです。

こんな駄文、最後まで読んでいただきありがとうございました。

あわせて読みたい