「ファイト・クラブ」が歴史的傑作である6つの理由【映画レビュー(若干ネタバレあり)】

デヴィッド・フィンチャー監督。エドワード・ノートン主演。ブラッド・ピットが助演を務める1999年公開作品。

そう、1999年。

90年代の終わりにして90年代を代表する恐るべき作品。

80年代のからっからのエンターテインメントが終わり、迷走と破壊とアンハッピーエンドの90年代。

僕はからっからのエンターテインメントを全く否定する気はありませんが、そればっかりじゃツマらなく感じるのも事実。そしてチープで単一的な美味しいお菓子もいいですが、ちゃんと作り込まれた数少ないお菓子もたまに食べて満足感を得たいのも事実。

90年代。音楽で言うとニルヴァーナが80年代を破壊した後の世界。

映画界ではアンダーグラウンドがだんだんと主流に入って行った時代であり、80年代的、また、ハリウッド的作品を否定する時代だったのではないかと勝手に、そしてなんとなく思っています。

90年代を代表する名作の一つ「ショーシャンクの空に」は、ハッピーエンドで素晴らしい、それこそ『希望』に満ちたお話でありながら、言ってみれば地味で、あらすじだけ聞けばどうってことのない作品のようにも聞こえます。ですが、その地味さこそが80年代にない「90年代性」であり、00年代の当たり前こそが素晴らしいと、身近にあるものを大事にしていこうよ的な哲学の始まりの一つだったのではないかと、これも勝手に思っています。

そして同じく90年代を代表する作品であり、またこちらもデヴィッド・フィンチャー監督作品である「セブン」。もうこれほどまでにアンハッピーエンドな作品が他に見当たらない。そして作品全体に漂っている「このクソな世界で生きていかなければならない」というテーマ。やはり80年代では考えられない作品であり、この作品がなければ00年代の「ミスティック・リバー」などの後味悪ーい作品も存在し得なかったと思っています。勝手に。

で、何が言いたいかというと、この「ファイト・クラブ」という作品は、その「クソな世界で生きていかなければならない」というテーマに、不快感ではなく憧れを加え、共感とともに00年代の作品の方向性を決めた映画であると思っているということです。これも勝手に。

 

と言うか、まーとにかく面白い作品であることは間違い無く、そして単に面白い作品では無い「何か」を感じる作品でもあるので、その「何か」はどうして生まれるのか。僕が勝手に考えていることを、紹介したいと思います。

(脚本や演出のうまさなどは当たり前のこととして、その奥にある作品性に話を絞りますので悪しからず。)

あらすじ

主人公の僕(エドワード・ノートン)は自動車会社でリコールの調査のためにアメリカ中を飛び回る会社員。ただ、最近は不眠症に悩まされ、病院に通っているが「不眠症で死んだ人間はいない」と言われ相手にされない。

ある日、グループカウンセリングを見つけ、行ってみた。自分が病気でも無いのに。そこではグループに自分の病状を話し、分かち合うことを目的としていて、何も話せずに黙っていると、むしろ辛い症状をもったかわいそうな人としてみんなが優しくしてくれる。その日、僕はカウンセリングで堰を切ったように泣き、その夜、赤子のように眠った。

これがクセになった。

いろんなカウンセリングを片っ端から行くようになる。そんな中で出会った底辺の女「マーラ・シンガー」。(この人も重要な登場人物の1人。)

マーラも僕と同じく、いろんなカウンセリングにことごとく出席している。不幸な人間の中に紛れ込んで自分も不幸な人間であることを偽り、カウンセリングそのものを目的とした最低の人間。このままでは自分も最低な人間であることがバレてしまう。また眠れなくなる日々。

僕はマーラと話し合い、それぞれの出席するカウンセリングを決めた。これで一安心。と同時に少しだけ交流が始まる。

そんな中、僕は出張先から帰る飛行機の中である男と出会う。

それがこの映画で最も重要な人物「タイラー・ダーデン」(ブラッド・ピット)。

その日、住んでいたマンションの自分の部屋が爆発する。

寝る場所がなくなった僕はマーラに連絡を取ることを一瞬考えた末、今日出会ったばかりの友人タイラー・ダーデンに連絡を取る。

パブで酒を飲んでいると僕は言う

『あー、せっかく悩んだ末に取り揃えたイケアの家具も全部パーだ。もうソファ選びには一生悩まなくてもいいと思っていたのに。』

それを聞いてタイラーは言う

お前は物に支配されている。

そして帰るとき、またタイラーは言う

『俺を殴ってくれ』

『は?』

困惑しながらも殴る僕。そして殴り返される僕。それは殴り合いへと変わった。

終わった後、なぜか清々しい気分になった僕。

『またやろう』

そうやってタイラーとの交流が始まり、その殴り合いにはいつの間にか仲間が増えて行った。

場所を変え、パブの駐車場から地下室へと変わって行ったその殴り合いの秘密組織。

タイラーはそれを「ファイト・クラブ」と名付けた。

そして物語はやがて、「ファイト・クラブ」を地下から地上へと移す計画「プロジェクト・メイヘム」へと発展して行く。

 

とまあ、あらすじはざっとこんな感じですが、途中ところどころにタイラー・ダーデンの名言が出ます。その名言は↓にもまとまってますのでよろしければご覧ください。

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理由① 普遍的なテーマ

ここから傑作である理由について、若干のネタバレも含めますが、語って行きたいと思います。

 

現代社会の…と言うよりも、文明そのものが生まれた時から抱えている、根源的な矛盾がテーマにあると考えています。

生きる意味」や「豊かさ」の抱える問題など。

「21世紀の資本」を僕は読んだことはありませんが、それを解説する番組を観ていた時に印象に残ったのは「過去、経済的格差が縮まったのは戦争などの混乱の時期だった」という言葉です。

映画中盤、タイラーが言います。

歴史のはざまで生きる目標が何もない。世界大戦もなく大恐慌もない

この危険な言葉。危険で良く無いとわかっていながら、共感する自分もいて、逆に「生きる意味」に押しつぶされて自分や周囲がよくわからなくなる気持ちもよくわかります。

タイラー・ダーデンは物質主義を否定します。

人間の価値は預金通帳の数字や車や着ている服で決まるものでは無いと訴えます。

そしてその豊かな生活を支える人間がいることも。

平和な世の中は素晴らしいことです。豊かさも素晴らしい。ただ、その安定や安心の裏にある影を見落とさず、焦点を当てたのがこの作品ではないかと思います。

平和を目指して来たはずの社会が抱える矛盾。それは現代に関わらず、聖書が生まれた時代やそのもっと前から問われて来た問題なのでは無いかと思います。

言葉を変えればそれは「幸せってなんだっけ?」とも言えるのかもしれませんが。

豊かさを求めて生まれた文明の、その豊かさが故に抱える矛盾。そこにテーマを持って行っていることこそ、この「ファイト・クラブ」という作品が歴史的傑作である根源的な理由であると思います。

理由② ラストシーンの予言

ではそのテーマをもとに物語が繰り広げられた末に何が待っているのか。

爆破によるビルの倒壊です。

まるで911を予言していたかのような最後のシーン。

予言していたからこの作品はすごいとか言うつもりはありませんし、そもそもイラク関係ないですからね。全然違うといえば違うのですが。

ただ、イラク戦争は良くわかりませんし、テロとの戦争もよくわからない上で、アホなままで考えを言うのであれば、911というものが文明や現代社会の象徴としてのアメリカと、アメリカの象徴に対する反抗。もしくは犯行であったのであれば、あのラストシーンは現代の影の部分を切り取った末の結末を描いたものであり、それが現実として現れた、予言であったとも言えるのではないでしょうか。

うーん。でもやっぱり違うと言えば全然違いますよね。すいません。

ただ「プロジェクト・メイヘム」はポップなテロ行為を行います。ポップなですけどね。

少し前に北海道の大学生がISILに参加しようとして逮捕された事件がありました。

このニュースを観た時、この大学生の気持ちが自分なりにわかってしまったんですよね。自分なりにですが。

『もう人生はある程度決まっていて、逸れることはできないし、何よりも自分の人生に意味なんてない。』

僕も含め、今の若者にこう行った感情を持っている人はとても多いと思います。

であるならば、遠い異国の、砂漠の広がるまるでゲームのような、映画のような世界で、聖戦に参加して、何かしらの意味のある死を遂げてもいいのではないか。少なくとも日本で、このままの人生を送るよりは。

こういった理由でこの大学生はISILに参加しようと思ったのではないか。と、勝手に共感してしまったのです。

勝手に共感してしまったということは、少なくとも自分も参加することを決意しようとした可能性はなくはないのです。なくはないというか、大いにあります。

そしてその感覚は「プロジェクト・メイヘム」でポップなテロ行為を行う人たちの中にも間違いなくあると思います。

そういった意味でも「ファイト・クラブ」は、現代の閉塞感の結末を描いたものとして、観ている人の共感を得るのではないでしょうか。

理由③ どんでん返し

どんでん返しを売りにしている映画の宣伝を良く見ますが、それはどんでん返ししか話の面白さがない映画だと思っています。

物語の最も重要な要素は人間を描いているかどうかであり、どんでん返しはただの飾りでしかないと思っています。だいたいバレたら残りの時間答え合わせでしかないですし。

では「ファイト・クラブ」はどうか。

確かにどんでん返しはあります。ただ、予告を観てわかる通り全くそれを売りにしていません。

どんでん返しはこの物語の一要素に過ぎず、僕たちが観て感じる魅力はもっと別に、そしてたくさんあります。

ただ、そのどんでん返しを知った上で見返すと、様々な仕掛けや細かい演出が見えて来ます。発見があります。

そこはやはりデヴィッド・フィンチャー監督の細部まで行き届いた演出力だと思います。

理由④ 皮肉

そのどんでん返しを理解した上で改めて見返すと見えてくる仕掛けの一つにサブリミナルがあります。

エンドロールの部分にもありますが、それ以外にも、わかりやすいサブリミナルが序盤、多々登場します。

何でしょうかね。こういう細部にある仕掛けの巧妙さ。現代社会を投影しておきながら完全なフィクションであるというどこか皮肉じみた仕掛け。しかもそのサブリミナルはタイラー・ダーデンのテロとして行なっているシーンもあるのでじゃあこのサブリミナルはタイラーが仕掛けてる的な?

そもそも資本主義、物質主義に対する批判をその代表でもあるハリウッド映画がやっているということ自体が大きな皮肉でもあるのですが。それがある意味とても90年代的なのかもしれません。

もしこの映画をタイラー・ダーデンが作り上げたテイで空想してみるならば、これだけ理由を並べ立ててカルト的に魅力を感じている僕たちを手を叩いて笑っていると思います。あの独特の笑い方で。

っていうことも空想してしまうくらい、この映画とタイラー・ダーデンという人物は魅力的なんです。


理由⑤ 結局タイラー・ダーデンがかっこよすぎる。

昔ジャズミュージシャンの菊池成孔さんのラジオで、カリスマ性の話になり、その中でふと「まぁ、カリスマ性があるってことは病気ってことなんですけどね」と言っていました。

確かにカリスマ性というものが『人と違う』という感覚の元に生まれる魅力だとしたら、それは社会から逸脱したものであり、異常者、もしくは病気なのかもしれない。

ただ、単なる異常者として終わらないのは、その社会の異常な部分を「異常!」と言えるのは唯一その人であり、その異常さに気がついた人は「自分は1人じゃないんだ」「間違っていないんだ」という共感や安心感を得れるからではないでしょうか。

しかしこのタイラー・ダーデンが「異常!」と叫ぶのは「物質主義」という言ってみれば文明、もしくは資本主義の根幹であり、虐げられた人たちや、うだつの上がらない僕のような人間は強く惹かれる。危険な考えであると思いながらも強く惹かれる。そしてその解決策がたとえ「破壊」という手段であっても。

…というかただ単にブラピがカッコいいんですかね。カッコいーよなー。ブラピ。ブラピになりたい。もし生まれ変わったら私は鯨かブラピになりたい。

理由⑥ 当時賞を全然獲っていない。

賞を獲っている映画が必ずしも素晴らしい映画ではありません。

しかし「この映画は賞を獲っていないからすごいんだ」と言うことはむしろその賞そのものを肯定することになるとは思うのですが、しかしこの「ファイト・クラブ」という映画はこれだけの話題と後の作品への影響力とカルト的人気がありながら、本当に賞の受賞歴が少ない。

それは当時の社会や世界が、言ってみれば「早過ぎて」理解できなかったのではないかと思うのです。

この考え方はあまり好きではないのですが、しかしやはりそう感じてしまいます。こんだけ面白いのに。すごい作品なのに。と。

これから向かう混沌の21世紀という時代の匂いをいち早く感じ取り作品にした。

獲得した賞の少なさはその表れなのではないかと思います。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

ここまで書いておきながらなんですが、僕はこの映画の原作の方は読んだことがありません。

ですからこの映画がどの程度原作に忠実かもわかりません。噂によればラストの展開の仕方は少し違うとか。

まあどちらにしてもこの映画が素晴らしい名作であることは変わりないかと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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