映画「ジョーカー」が期待外れだった6つの理由【ネタバレあり】

観てきました。今年最大の話題作「ジョーカー」。

僕自身映画好きとは言っておきながら、映画館で映画を見る習慣が全然なく、貧乏だった頃の名残もあり、基本はレンタルかアマプラでの観賞になるのですが、ずっと楽しみにしていたということや、友達に誘われたということもあり、久々に映画館に足を運び観賞してきました。

しかしこんなに話題になるとはまさか思ってもいず。

ヴェネツィア国際映画祭での金獅子賞受賞や、その内容から警察や軍が警戒を強化したり、DCコミックながらR指定作品であり、例えば「デッドプール」のように『子供が観てもまぁ大丈夫であろう』な映画ではなく、本当に観せることは推奨できない、大人向けの映画であることを映画館が呼びかけたりと、社会的な動きもあり

『一体どんな映画なんだろう。すごそう…』

と思う人が増えたことが、これだけ話題を呼んだ理由なんじゃないかと思います。

僕自身、バットマンはクリストファー・ノーラン監督の「ダークナイトシリーズ」しか観たことがなく、しかしあれだけ観ればジョーカーの魅力に犯されることは誰でも間違いはなく

『そのジョーカーが主役の映画がやる!しかもアメコミとしてではなく実際のリアリティのある世界を舞台に…!絶対に面白いじゃん!』

ということで期待値はバリ上がりでした。

そしてのちに発表される長めの予告第一弾。

僕はこっちの予告の方が好きです。チャップリンの名曲「スマイル」がとてもよくあっています。

という、とても高めの期待値の状態で観に行ってきた「ジョーカー」ですが感想として最も大きく感じたのは『物足りなさ』でした。

その『物足りなさ』の理由を若干のネタバレを含みながら書いていきたいと思います。

あらすじ

コメディアンになりたい精神疾患の持ち主である主人公アーサー。ゴミが溢れ荒んだ社会の中で時に笑い者にされながら、弱者として生きている。その男がなぜ悪のカリスマ「ジョーカー」となったのか。バットマンの中でも最も人気の高い悪役の1人「ジョーカー」の誕生をコミックとは異なる、リアリティのある世界観で描く。

理由① ジョーカーの変貌っぷりが足りない。

1番大きいのはやはりジョーカーの変貌っぷりが足りないことなんだと思います。

相手の裏をかき、人を操り混乱を作り出す愉快犯。明らかに悪であると、間違っているとはわかっていながらも一つの真実、真理のようなものを唱えて共感を呼んでしまう。悪のカリスマ。

その悪のカリスマとなるまでの姿を描くと言っておきながら、全然そんな感じはない。ただただ理不尽に人を殺し、それが偶然社会の共感を呼んでしまうだけの話

さっきも書きましたが、僕は「ダークナイトシリーズ」のジョーカーしか観たことがなく、その印象があまりにも強すぎるのでそう思ってしまったのかもしれません。

言ってみればダークナイトシリーズのジョーカーに勝てなかったと言えるのかもしれません。

いやっ、それとはまた別のものとして観るべきものなのか…。うん…でもやっぱりダメかもな。だってジョーカーなんですもの。

理由② 主人公が受動的。

少し理論的なお話になりますが、脚本を書く時、特に長いお話ではプロットポイントというものがとても重要になってきます。プロットポイントがあることでそれが話の推進力になり、物語に筋が生まれる。長いお話ではプロットポイントが2回必要だと言われています。

ではプロットポイントとはなんなのか。そこは、主人公が『決断』をするシーンなんです。

何かをしようと主人公が『決断』をし、それに向かって動き出す。逆にそれを邪魔する人間が現れることで葛藤が生まれ、『どうなるんだろうこのお話は』と観る人は先が気になり夢中になる。

では「ジョーカー」において主人公アーサーは何かを『決断』したのか。今思い返してみても思い当たらないんですよね。僕の理解力不足なのかもしれませんが。

なので基本、受動的に物語が進んでいるように思えました。

殴られてる中でとっさに銃を撃ってしまい人を殺してしまう。それでは『決断』とは言い難い。最後の方にプロットポイントと言えなくもないものもありますが、それも劇的ではない。流れでやってしまったに近い。

TVの生中継で人を殺すのもプロットポイントとは言い難いです。プロットポイントはそれ自体が『起承転結』の『起』になってその後の『承転結』を招く力を持ちますが、これはどちらかと言えば『転』に近いです。

おそらく脚本執筆者は最初の殺人をプロットポイントにしているのかと思いますが、それが『決断』ではないため、話の筋になっていないというのがよくないのかなと思います。しかし作者の表現したいテーマを考えるとこうならざるを得ないのかもしれませんが、でも、もう少し模索は必要だったのではないかと思います。

理由③ 街の暴動への変遷の道筋が見えた方がよかったか。

これも構成の話になりますが、最後のクライマックスの暴動のシーン。そこへ発展していくまでの道筋をもう少し見せても良かったかなと思います。

人によるかもしれませんが、僕には暴動がいきなりやてきたかのように見えました。

1番最初のシーンでゴミが溢れかえってどうのこうのというのをTVが報じているシーンがありますが、台詞でしか説明していないものは説明していないようなものです。

理由④ ジョーカー に賛同する人の気持ちがあまりよくわからない。

恐らく理由③も原因の一つかとは思いますが、ジョーカー に賛同する人々の気持ちが、本質の部分でわからなかったです。

多分貧乏だから、金持ちに対する不満を爆発させているんだろうなとは思うのですが、それはなんとなく自分を納得させただけで、実際誰がどう困っていたのか、ジョーカー によって何か変わるのかはわからず。カタルシスを得ることはできませんでした

そもそもジョーカーは精神病であること、人と異なることを気に病んでいたのであり、貧乏に対する不満はまた別のところにあるようにも感じます。

ジョーカーの敵と市民の敵が同じである必要はないかもしれませんが、そうすると構造がややこしくなり、やはりそこをつなげるキャラクター等は必要だったのではないかと思います。

理由⑤ 主人公以外がもっと悪く見えた方がよかった。

例えば「羊たちの沈黙」のように、レクター博士以外の人間をこれでもというくらいにクソな人間にして、唯一紳士的な人間であるレクター博士をあたかも正義であるかのように見せる手法を使うこともできたはずです。

…でもそれは…やりすぎか…な?

ただ、理由④とつながってくる部分ではありますが、結局この理由⑤の根幹にあるのは、ジョーカー の行動によってカタルシスを得ることができないという点にあります。

貧乏人と金持ちの対立構造も結局のところ見えてこない。

荒んだ社会で悪い奴らがいて、その被害を主人公が受けてしまうというのはなんとなくわかりますが、そんな殺すほどのことでもないじゃないかと思ってしまう。いやっ、殺していいことなんてないんですけどね。特に元同僚を殺したことについては理不尽すぎる。

理由⑥ 全てが主人公のジョークという解釈もあるが…。

この映画は基本的に主人公を中心に回っています。全てのシーンで主人公が登場する。

加えて最後のシーンから、この映画のストーリー自体が全て主人公の思いついたジョークであり、その内容を見ていたという解釈があります。

なるほど、確かにそうかもしれません。最後のシーンの意味からするときっとそれが正しい気がします。

ただ、だからと言ってこの物語が面白いかと言えばまた別の話です。

例えばクリストファー・ノーラン監督の名作「インセプション」の最後のシーン。あのシーンでコマが倒れようが倒れまいがあの映画の面白さは変わりません。むしろあのシーンこそが完璧だと思います。

では「ジョーカー」の最後のシーンはどうか。正直あってもなくても印象は変わらないです。

なぜならそこに向けた伏線が全然ないので。なんの前振りもなく現れたシーンに納得できるほど僕の理解力は追いつけませんでした。

一緒に行った友達は面白がってました。

なんだかんだと書きましたが、一緒に行った友達は十分に楽しかったと言っていました

その友達は『あそこは「タクシードライバー」のオマージュで、あそこは「キングオブコメディ」のオマージュだったね』等々と言っていたので、もしかしたらそういった楽しみ方をする映画なのかもしれません。

考えてみれば僕自身「タクシードライバー」を観てもよくわからなかった人間の1人なので、そういう人には観ても何も感じるものがないのかもしれません。

しかし、そもそもの期待値が高すぎただけで、そんなに高くせずに観たらそれなりに楽しめたのかもしれません。

節々に出てくるダンスシーンはとても印象的ですし、『ジョーカー怖っ』と思うシーンもありました。企画のアイデアもいいですし、バットマンの物語との絡みがあるシーンでは『おっ!』と心躍りました。

現在のアメリカの社会構造や、社会的弱者の存在など、しっかりと知っている人はまた見方が違って楽しいのかもしれません。

ただ、楽しいと書きましたが内容がないようなので、ただ単純に楽しむために観に行ってはダメですね。

 

いかがでしたでしょうか。最終的に帰り道に出た考えは『やっぱりクリストファー・ノーラン作品の脚本はすごいな』ということと『次は単純に楽しめる映画を観たい』『甘いものが食べたい』ということでした。

観るとかなりエネルギーを使います。それなりにカロリーを摂取したのちに観ることをお勧めします。

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